ヴァイオレット・エヴァーガーデン第8話
墓地へ行く道。
「少佐の『愛してる』を知りたいのです」。
ヴァイオレットが育ててきた想いは、ギルベルト・ブーゲンビリアの銘が刻まれた墓石、という冷厳な事物によって、無慈悲に断ち切られました。
われわれ視聴者もまた、彼女が感情を獲得していく道程を倶に歩んできたのですが、その道はついに、「墓地へ行く道」でしかなかったのか。
そんな無常観が纏綿し、ヴァイオレットのみならず、われわれをも途方に暮れさせるのです。
「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の物語においては、「倒叙形式」が採用されています。
まず、現在が描かれる。回想場面を点綴しつつ物語を進めていき、突然のカットバックによって過去へと引き戻してみせ、視聴者に「ヴァイオレットの想いの追体験」をさせる。見事な語りです。
彼女の努力も、畢竟、ギルベルトの墓へ行き着く道を歩んでいたに過ぎなかったのか?
語りの形式の工夫が、より痛烈な、生々しい効果を生むことに成功していると云えます。
過去回想エピソードである今回は、戦場の映像描写が過半を占めています。
美しい街や田園の映像描写だけでなく、重苦しく暗い戦場の描写においても、京アニの卓越した技術は力を発揮することが、あらためて確認できました。
描き出した事物を通じて豊かな感情移入をさせるのも、映像の力。一方で、感情移入を拒否する描写によって、視聴者に重い感動を与えるのもまた、映像の力です。
アパテイア。無感動。
アタラキシア。心の平静。
古代ギリシアの哲人たちが思い描いた、心の理想郷の二典型です。
こんなに苦しい想いをするのなら、感情なんか覚えるんじゃなかった。
少佐の墓に直面したヴァイオレットの、心の慟哭がきこえてくるようです。
もしかすると、ただ無感情に、少佐の命ずるままに行動していたときの方が、心は平和だったのかもしれません。
唯一の庇護者である少佐の命令を聞き、少佐のためだけに生きる。それこそが、至福の時だったのかも。
感情を獲得してしまったことが、彼女にとって「悲劇の誕生」にならなければいいのですが…。
戦場においては、無感情こそが最大の武器。
敵への憐憫など欠片もなく、自分が生き残ることさえも考えず、ただ眼の前の敵を淡々と殲滅していく。
「生きるのに執着する奴あ怯えが出る、眼が曇る。そんなものがハナからなけりゃな、地の果てまでも闘えるんだ」(広江礼威「ブラック・ラグーン」より)
人情派の少佐でさえも、ヴァイオレットの行く末を気にかけつつ、結局は戦闘人形としての彼女に頼らなければ、隊を維持することすらできない。
傷つき斃れていく小隊にあって、ヴァイオレットの班だけがほぼ無傷だった、というさりげない描写が、戦場における冷酷な論理を端的に示しており、戦争の無残さを巧みに演出しています。
余談ですが、「アタラキシア」で検索したら、オタ女のためのカフェ「アタラキシア・カフェ」がトップに。
オタ女以外、一般人および男子は禁制という、大阪の隠れ家カフェらしい。なるほど、そんなのもあるのかw
Aパートの掉尾で、ヴァイオレットの想いが断ち切られたように、Bパートでは、少佐が凶弾に斃れた瞬間で、映像は断ち切られています。
墓はあるけれど実は、という意外性の物語は枚挙にいとまがないので、ヴァイオレットをめぐる物語の趨勢は、未だ予断を許さないところです。
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