ヴァイオレット・エヴァーガーデン第12話
生きろ。
「もう、誰も殺したくないのです。
少佐の命令は、生きろ、であって、殺せではありません!」
ヴァイオレットは、ディートフリートの差し出す武器を拒否し、彼が浴びせる峻烈な挑発にも、毅然と抗いました。
彼女の意志の力は、よく伝わってきたのですが…。
今回、列車を舞台にした戦闘アクションが、延々と繰り広げられました。これまでの文脈とは背馳した流れに、違和感を覚えたブロガーさんも少なくないようです。前回感想でも触れた「揺り戻し」が、さらに増幅した感があります。
これは何だろう。「見せ場が不足」という意見でもあって、忖度した結果なのだろうか。瑰麗な映像効果を演出したくて「プリンセス・プリンシパル」辺りを意識したのかな?
確かに、驀進する列車という限定空間における濃密な戦闘シーンは、アクション演出の華ですからね。
もちろん、制作側が込めたであろう意図も、推察はできます。
不殺を標榜しても、結局は戦場に戻らざるを得なくなる。それが戦士の宿命。某るろうにではないけれど、戦場と日常の物語においては、当然に近い帰結です。そこを押えておきたかったのかも。
さらに、「手紙が人を救う」という光の部分を描き続けてきた物語においては、影の部分をも描いておく必然があったのかもしれません。インテンスの残党たちのように、その狂信ゆえ、言葉が届かない相手もいる。それが現実なのだから。
めざましい映像効果を演出したい。物語の影の部分も描いておきたい。そんな欲張りな要請から生じた第12話だった可能性はあります。
しかしながら、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」という、すぐれて内面的な物語における「戦い」は本来、精神的なものだったはず。つまり、ディートフリートとヴァイオレットの精神的闘争こそが、今回のメインとなるべきであり、もっと稠密に、きちんと描かれるべきでした。
そう、ヴァイオレットにとっての真の「敵」は、メルクロフ准将やイシドルといった連中などではなく、ディートフリートなのだから。
終盤に至って俄かに存在感を増してきたディートフリート。ヴァイオレットの魂の成長を頑なに認めようとしないディートフリート。
一方で彼は、ヴァイオレットを最初に見出した人間であり、ギルベルトに彼女を譲り渡した男。彼ら兄弟の深刻な関係性から云えば、ディートフリートはいわば「否定者としてのギルベルト」と云えるのではないでしょうか。
ゆえに、彼こそは、彼女が新たな生を生きていくために、必ず超克するべき相手。彼との和解は「世界との和解」にも等しい重みをもつ。それほどの存在なのです。
ところが、物理的な戦闘描写に注力し過ぎて、肝心なディートフリートとヴァイオレットとの「精神の闘い」が粗雑に扱われた感があります。「まだ命令がほしいのか」「死んでしまえ!」など、乱暴で単調な言葉に終始し、二人の心の襞を十全に表現できなかった憾みがありました。
ともあれ、公開和平調印式の実現により平和を齎す、というミッションが提示され、大団円への道すじは視えました。
遺された尺では、あらゆる妨害や軋轢を乗り越えて、カトレアの代筆による調印式を成功に導く。その一点に向けて物語を収斂させていくしかありません。
あとは、これまで紡いできた「手紙」というテーマを、どう象嵌させるのか。脚本の腕の見せ所と云えるでしょう。
次回、いよいよ完結です。
ヴァイオレットの心の旅路は、どのような帰結を迎えるのだろう?
手紙、すなわち言葉を通じて獲得した人間性の復権が、どのように高らかに謳われるのか?
ギルベルト少佐への想い、「愛してる」の昇華は、どのように為されるのか?
そして、ディートフリートを通じた「世界との和解」は可能なのか?
すばらしいカタルシスを期待したいと思います。
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