ヴァイオレット・エヴァーガーデン第7話
奇跡と、その代償。
ヴァイオレットは、劇作家ウェブスターが、苦吟しつつも生み出そうとしている物語に共感し、亡きオリビアが望んだ「湖の奇跡」を実現。ウェブスターの心を救いました。
彼女が、感情に目覚めたゆえの、喩えようもなく美しい奇跡。
しかし、彼女にとって、その代償はあまりにも大きかったのです。
劈頭いきなり、運命劇「赤い悪魔」の台詞が放たれました。
「ああ、私はこの罪を背負って生きるしかない。この先、一生」
この台詞こそは、ヴァイオレットを待ち受ける運命を暗示する、重要な伏線でした。京アニの心憎い演出です。
エリカさまが崇拝する劇作家、オスカー・ウェブスター。華麗な文藻を駆使する人気作家です。
しかし、現実の彼は、愛する妻と娘を失い、酒に溺れて執筆もままならないダメ作家でした。
俺は飲まなきゃ書けないんだ。
ウェブスター氏の言い分、分ります。私だって、飲まなきゃとてもブログ記事なんて(以下略
ここで刮目すべきは、京アニの映像演出。
まず、「低きもの」を徹底的に描写してみせる。酒瓶が転がる荒れ果てた家の描写、ヴァイオレットが繰り返し失敗する卵割り、塊と化した失敗作のカルボナーラ。
これら映像描写によって、視聴者に低回イメージを植えつけ、ある種のストレスを与えておいて。
一転、パラソル片手に湖上を飛翔するヴァイオレットの、美しい映像による奇跡を演出し、物語を一気にカタルシスの高みに導く。ドラマトゥルギーの要諦です。
「より高く跳ぶためには、より低く屈まねばならない」。そんな至言を自家薬篭中のものにしてみせた、あざやかな手際。
まさに、京アニ演出の独壇場ですね。
「ご覧になりましたか。三歩は歩いていたと思います」
ここは笑うところかな?(笑)
そう、湖上を歩くなんて、ニンジャかイエス・キリストでもなければ、とうてい不可能。常人では思いつきもしない、いわば愚行です。
しかし、いっけん愚かともいえる行動が、奇跡以上の奇跡を生む。
ヴァイオレットの行動が、ウェブスターとオリビアとの痛恨事だった「いつか、きっと」を叶えてくれた。
それは同時に、ヴァイオレットが豊かな感情を獲得した証しでもありました。
でも、感情は諸刃の剣。獲得した感情が、今度は彼女を苛み始めます。
戦闘人形だったころ、戦場で奪ってきた数々の命の幻像が脳裡に去来し、彼女を苦しめるのです。
いつかきっと、を実現した美しい奇跡が、いつの間にか諸刃の剣と化して、
「私は誰かの、いつかきっと、を奪ったのではないですか」という苦悩へと流れ込んでいきます。
そして、ヴァイオレットを打ちのめした、決定的な一言。
「浮かばれるわね。亡くなったギルベルトも」
視聴者も怖れていた一言が、ついに放たれました。
それも、通りすがりのエヴァーガーデン夫人の口から。
まさに、リアリズムのお手本のようなシークエンスです。
「もっとも決定的な言葉が、もっとも平凡な人から語られる」
写実主義文学の開祖であるフローベールの世界的名作「ボヴァリー夫人」に、「悪の華」の詩人ボードレールが寄せた、有名な書評の一節です。
重要人物が重要な台詞を語っても、それは当たり前過ぎて、読者の心に響かない。
現実においてはむしろ、平凡な人物の何気ない言葉が、運命の歯車を変えてしまうことがある。そこに現実感が生まれる。
この手法こそがリアリズムの極意だと、批評の達人でもあるボードレールは云うのです。
(余談ですが、カトレアさんのフルネームって、カトレア・ボードレールなんですね)
衝撃さめやらぬまま、ホッジンズに詰め寄るヴァイオレット。沈痛な面持ちで、真実を重く語り始める彼。
「瓦礫の下に認識票があった。それで、未帰還扱いになって」
「少佐はきっとご無事です」
「ヴァイオレットちゃん…」
「ご無事です!」
郵便社を飛び出し、無我夢中で疾駆するヴァイオレット。
坂道を、息を切らせながら駆け下りて行くこのシーンに、「彼女を待ち受ける運命的な坂道」という象徴を読み取ることも可能ですが、さすがに穿ち過ぎかなw
ともあれ、ここに至って、タイトルの「 」が利いてくるのですね。
少佐の、かくも長き不在と、ヴァイオレットの抉られた心の空白とを倶に表象しており、巧みです。
構成と演出の妙とをつくした、序破急でいえば「破」にあたる、重大なエピソードでした。
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