1-1
これは、心を持たないヴァイオレットに託された、心についての物語。心を育てるための庭の物語。
エヴァーガーデン。永遠(とことわ)の庭。
花の名に表象された「花咲く乙女たち」が奏でる言葉がかたみに響き合う、美しい庭。
だって、そこはevergardenなのだから。緑したたる庭=世界を舞台にした、evergreenな物語なのだから。
彼女たちが紡ぐ光と影の日々は、いま始まったばかりだ。
1-2
乙女たちの名は、それ自体が「象徴の森」。花言葉からも窺える。
ヴァイオレット。謙虚、誠実、小さな幸せ。
カトレア。成熟した大人の魅力、魔力、魅惑的。
エリカ。孤独、博愛、良い言葉。
アイリス。よい便り、メッセージ、希望。
カトレアとエリカの場合は「現在」を。
ヴァイオレットとアイリスの場合は、彼女たちが追うべき「未来」を示唆していることは、自明の理だろう。
1-3
成熟と未成熟。理性と感情。戦争と平和。
矛盾するものを、より高次の次元で統一し、止揚していく。まさに、物語としての醍醐味が溢れるロマンだ。
2-1
映像作品において「言語」の問題を取り扱う至難を、京アニほどの手練れであれば、とっくに知悉しているはず。
だから逆に、映像に注力する。それが、これまでの京アニの試行錯誤だった。
果敢に挑み続ける京アニの新たな挑戦に、心からの拍手を送りたい。
あの「氷菓」も、当初こそ映像表現が勝ち過ぎて、フラットな物語を表現の奇矯さでリカバリーしようとした無謀な試みかと思われたけど、終ってみれば、京アニの里程標的な傑作となったのは周知のとおり。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンも、充分拮抗できる強度を保った物語となり得る。その構えの予兆は、充分に読み取れる。
2-2
ヴァイオレットの奇矯な行動は、まるで幼子のそれのよう。そのイノセントは、人々を攪乱し、困惑させる。
でも、幼子だということは、いわば大いなる特権。
人間の成長段階は、三段階から成るというのが、ニーチェの思想的根幹だ。
ただ忍従する駱駝の精神から始まり、「我は欲す」の強大な獅子の精神を経て、ついには、聖なる肯定を体現する「幼子」となる。
そこに至って、人間は「無限の自由」を獲得する。
(ニーチェ「ツァラトストラかく語りき」)
だからこそ、幼子であるヴァイオレットの無垢な精神は、周囲への波紋を拡げていくのだ。
花咲く乙女たちに、不思議なコレスポンダンス(交感)がゆっくりと拡がっていく。
エリカ。何事にも自信を持てない悩み多き眼鏡っ子は、いつの日か、人の心に響く手紙を書きたいと希求する。いわば、もう一人のヴァイオレット。
アイリス。いつか、有名女優のラヴ・レターを代書してみたい。そんな表層的な虚飾すなわちアイドル(偶像)に憧れる普通の少女。自動手記人形のドールは、「アイドール」のメタファーかもしれない。そんな他愛ない語呂合わせの誘惑にすら駆られてしまう。彼女の成長もこれからだ。
カトレア。
成熟した大人の女性として、濃厚な蠱惑をふりまく彼女。
ホッジンズの愛人(?)として、ヴァイオレットの師にも反面教師にもなり得る両義的な存在。
カトレアの強烈な魅惑は、この清潔なクリスタル・クリアの物語に、性愛の視座すら提供可能なのだ。
ホッジンズがヴァイオレットを庇護するのは、何故だろう。盟友であるギルベルト少佐への義理?それとも?
ヴァイオレットの、シルバーメタリックな義手が気になっている。
直接的には、帰還兵士たちを待ち受ける苛酷な戦後を描いたアカデミー賞9部門受賞の名作映画「我等の生涯の最良の年」を想起させる。主人公の一人、傷病兵であるホーマーの両腕は、金属製の鉤のような義手だった。「プリンセス・プリンシパル」第6話の、あの親仁が装着していた稚拙な義手だ。
それに比べれば、ヴァイオレットの義手は遥かに精巧で、むしろヒトの手よりも美しい。そこに、特異的な美を見出すことだって可能だろう。
「彼女は、無い腕を持っている。だからこそ美しい」。
フェティシストは、そういう幻視的思考のもとに、腕の欠落した女を愛するそうだ。
澁澤龍彦が喝破したように、「人体欠損」はフェティシズムに繋がっていく。ヴァイオレットは、性愛の対象たりうるのだ。あくまで、例えばの話だが。
ゆえに、人の良さそうなホッジンズの、今後の立ち位置が気になる。彼がフェティシストだと云うのでは、無論ない。
ピグマリオン・テーマには、映画やミュージカルでおなじみの「マイ・フェア・レディ」のような物語も包摂される。イノセントな少女を自分好みの女性に育てていく物語。
唯一、少佐の消息を知っている人物として、彼はヴァイオレットに最も影響力を揮える男でもある。
孤児の少女を庇護する、気の良い「あしながおじさん」を演じているうちに、父性的な愛情が、男女の恋情に変化することだって、蓋然性としては考えられるのだから。
3-1
人は、望むものを手に入れられるとは限らない。
ヴァイオレットは、少佐の「愛してる」を理解できる「言葉」を手に入れることはできるだろう。
でもそれは、彼女の望みをかなえてくれるとは限らないのだ。
3-2
「心の旅路」の果てに彼女を待つものは、未だ予断を許さない。
この物語における最大の謎は、もちろん、少佐のゆくえ。
ホッジンズの「戻ってこない」しか手がかりはない。生死すらも不明。
それでも、ギルベルトが、辺境伯という貴顕の家の出自であることは示されている。
ヴァイオレットとギルベルトを隔てる隘路は、いくらでも考えられる。
波乱万丈が売りの、英国ロマン文芸の伝統から類推できる、いくつかのパターン。
(1)すでに死んでいる。
(2)生きているが、失明などの致命的な障害を負っている。体の自由が利かない。
(3)すでに婚約者がいる。あるいは妻がいる。
(4)名家ゆえに、恋愛の自由はない。孤児であるヴァイオレットが受け入れられる余地はなく、想いは届かない。
3-3
ヒトならざる者として出発したヴァイオレットが、ヒト、つまり感情豊かな女性として、ささやかな幸福を得る。そんな愛すべき「感情教育」の物語になるのだろうか。
あるいは、彼女が得た言葉は、既に死んでいる少佐へ手向ける挽歌にも似た手紙として結晶し、昇華されるのだろうか。
そんなカタルシスも悪くはないのだが。
3-4
私としては、さらに一歩を踏み出す、深化した物語を期待したい。
可能性の一つは「戦う乙女」。手紙すなわち言葉の力によって、彼女とギルベルトとを隔てる困難きわまる現実に挑み、変革していく。言霊の力を信ずる私としては、そんな積極的な物語をこそ観てみたい。
そう、凛々しいヴァイオレットには、想いを成就した「花咲く乙女」より、むしろ「ワルキューレ」を望みたい。
ワルキューレ。戦う男たちを、神々の館ヴァルハラに導いて、魂を憩わせる女神。
なってほしい。物理的な武器の代りに、言葉という精神的な武器によって、人が生きていくには厳し過ぎる世界を浄化する、力強い「生のワルキューレ」に。
そのとき、物語の地下水脈を流れるもう一つのテーマ、「戦場と日常」とを止揚する救世(ぐぜ)の祈りは完結するのだ。
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