クジラの子らは砂上に歌う第12話(最終話)
「俺たちは泥クジラとともに生きる、泥クジラの子だ。
ここに生まれてよかった。みんなと一緒にいられてよかった」
旅は――続く
続編が在るのかどうか分りませんが、ともあれ、物語は終劇を迎えました。
これだけの構えの作品を一クールで収めるのは、やはり至難の業だったようです。
野心的なハイ・ファンタジーという触れ込みもあり、放映前から視聴者の期待度を大いに高めたクジ砂。
確かに、質の高いアニメ作品だったと思います。「食戟のソーマ」との掛け持ちだったことを考慮すると、J.C.STAFFの奮闘ぶりは称賛に値します。特に、柔らかいタッチの作画と背景美術とがすばらしかった。
ただ残念なのは、これだけの作画的膂力と豊かな道具立てが投入されたにもかかわらず、物語総体としては、フラットな印象が最後まで拭いきれなかったことです。
惜しいなあ…。
「魔法使いの嫁」もそうですが、質が高いだけに、隔靴掻痒感が募ってしまうのです。
例えば、最終話におけるマソオの死。
シルシの中では年長格の、とはいえまだまだ若々しかった彼が、枯れ木のように朽ち果てて死んでいく。
シルシたちにとっては、死が避け得ない運命である冷厳な事実を思い知らされたことで、戦死よりも遥かに衝撃的な光景だったに違いありません。
確かに、彼らの「哀悼」の念は伝わってきました。
伝わったのですが、単なる感傷的な悲哀に終わっています。
マソオの死という衝撃を活かすには、それをきちんと咀嚼し超克する過程が、すなわち「シルシたちが自らの生をどう生きるべきか」という緊要なテーマに繋げて、ドラマとしての熱量を高め、昂揚させていく「作劇の力学」が必要だったと思うのです。
ただ、現下の設定では、シルシたちは、自らの運命を変革するすべを持ちません。彼らを受け容れてくれる「約束の地」を探して彷徨うのみです。
この設定に工夫を加えない限り、視聴者の感情移入を呼び込むドラマトゥルギーの成立は難しいかもしれません。
物語をスタティック(静的)にしたもう一つの原因は、主人公で語り手のチャクロ。
「物語を記述する、語り部の主人公」という設定は確かに斬新でしたが、その利点を生かせないままに終わってしまった印象です。
このような大河物語においては、主人公をめぐるビルドゥングスロマン(成長物語)の要素が不可欠。チャクロには、それがなかった。
どう見ても、オウニやシュアンの方がキャラが立っていましたからね。
チャクロのサイミアは、誰かを護るためなら最高度の力を発揮する設定が示唆されているので、せめて、その辺りを強調すれば主人公らしくなったかもw
「あなたに、新しいコミュニティのリーダーになってほしい」
スオウからオウミへ渡された、泥クジラのリーダーの座。
やっぱり真の主人公はオウミか!
思わず微笑してしまったのはナイショです。初手からそうすればよかったのにw
ともあれ、物語は終りを告げました。
チャクロやリコス、オウミたちの旅の続きを、いつかどこかで観てみたいと思います。
スタッフの皆さん、お疲れさま!
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