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2017年9月21日 (木)

【考察】プリンセス・プリンシパル第11話に関する一つの試論

プリンセスがアンジェに投げつけた過酷すぎる言葉は「ダブル・ミーニング」。ダブルミーニングとは、言葉に「二重の意味」をもたせること。この場合は、眼の前のアンジェに向けた言葉と見せて、実は自分自身に向けた「言葉の刃」だった。そんな解釈を敢えて試みた。
プリンセスとアンジェの関係性や心情については、作中で繰り返し描かれたとおり、「壁と嘘の関係」。そのとおりだと思う。しかし、そうしたウエットな側面にばかり固執しては、全体を見誤る虞れがある。この作品は、単一効果のみを狙ったものではない。それほど単純なものではない。私が注目したのは、二人の関係に加えて、「プリンセス自身が内面に抱えた心情、その闇の重さ」だった。

プリンセスが、あまりにも巨大過ぎる陰謀に敢然と立ち向かう勇気を得るには、「跳ぶためのきっかけ」を必要としたはず。そしてそれは、怯懦だった過去の自分自身、すなわち「城の中での孤立無援に怯え続けた街の少女アンジェ」という、未だに引き摺っているだろう心の闇を真っ向からみつめ、勇気をふるって訣別する。そんな心理的必然に繋がった。
だからこそ、あの「さよならアンジェ。二度と姿を現さないで」「プリンセスはわたし!あなたが一人で消えてちょうだい!」が活きてくるのであり、「今眼の前にいるアンジェへの、本心を隠した嘘」としてのみ受容するよりも、より複合的な、より重い台詞となって、我々の心にずしりと響いてくるのだと思う。
プリンセスは、「カサブランカに逃げよう」と懇願するアンジェに、かつての弱い自分自身を見てしまった。だからこそ、視聴者にとっても辛すぎる、あの厳しい台詞が放たれた。プリンセスの勇気ある言葉は、二人の少女を倶に鼓舞したのではないか。救ったのではないか。

ゼルダたちの前に姿を現したのは、アンジェではなくプリンセスだった。運命に立ち向かう勇気をふるいおこした、かつての街の少女だった。それが私の解釈だ。
芸術作品においては、丹念に積み上げられた伏線が、ラスト一発でひっくり返されることだってある。それこそが、論文ではない「物語」の醍醐味。正解を競うのが「物語を読む」ことの本道ではない。
そして、この試論にしても、物語を愉しむために試みた、一つのテスタメント。
「揺らぎ」の愉悦を存分に味わいたい。私自身の予測を軽やかに裏切ってくれるような、あざやかな最終話を鶴首して待ちたい。それが私の望みだ。

【追記】

この記事を書いていて、いろいろ考えをめぐらす時間と余裕ができました。
今までは、四面楚歌な状況において、プリンセスとアンジェが救われる方途は単純に「逃げる」一択しかないと思っていたのですが。だからこそ、カサブランカがダメなら、ちせを頼って「日本に逃げる」なんて離れ業も空想していたのですが。

プリンセスが「消える」。
死んだふりをして、消えてみせる。
そのテは充分アリだなと思いつきました。

ミステリの名手チェスタトンに「サラディン公の罪」という短篇があります。
前後を仇敵に挟まれて進退窮まったとき、逃れるための最善の手段は。
さっと体を外し、勢い余った敵同士を激突させて殺し合わせればいい。そうすれば、おのずと上手くいく。
プリプリでいえば、傀儡として使い捨てるはずだったプリンセスがいきなり「消滅」することにより、大義名分を失ったノルマンディー公と軍部とが、猜疑の果てに互いに殺し合う。この連中がいなくなれば、対立の象徴としての「壁」もなくなる。そしてプリンセスとアンジェは、「無名の人」として、手を取り合って約束の地へと落ち延びる。
あるいはこれが、フェイクと逆説とに充ちた「プリンセス・プリンシパル」の物語にふさわしい結末かもしれないな。
今は、そんな「妄想」を愉しんでいるところです。

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