中二病でも恋がしたい!第11話感想
#11「片翼の堕天使(フォーリン・エンジェル)」
師走ともなると、さすがに仕事が押せ押せになってきました。
「とな怪」「ヨルムン」「K」は、最終話のみの記事になりそうですが、「中二病」については、書いておきたいと思います。
着地点が視えてきましたね。
登場人物たちの台詞が、最終話の方向性を示唆しています。
森夏「あのさ、意地はってるようにしか見えないんだよね。勇太も六花も」
凸森「そんなの、分ってるデス!でも、どうして言えないんですか?俺が不可視境界線に連れて行ってやる、って!」
あるいは、「中二病を卒業した」はずの六花が、部屋を整理しようと試みて、「捨てられる物と捨てられない物がわからない」と呟く場面。
そう、現実とは、「あれか、これか」ではない。不寛容だけが、現実の全てではない。
もっと可塑性のある、もっと融合的なもの。みんなが、自由に呼吸できる場所。
「あれも、これも」で、なぜ不可ないのか?
それが「世界」の本当の姿ではないのか?
やはり、六花の傷ついた魂を癒してくれるのは、勇太しかいないようです。
現実と夢想。彼我の世界のはざまに立つ彼こそが、不自然に抑圧された彼女の魂を救えるのです。
ブログを巡回すると「どうしてこうなった…」という悲痛な叫びを散見します。なぜ、ラブコメの儘でいられなかったのかという嘆きが、巷間に溢れています。
この作品の方向性として、一度は、「中二病」をとことん貶める作劇になることは、充分予想されました。
作劇(ドラマトゥルギー)とは、「肯定と否定とのせめぎ合いから生じる葛藤」に尽きます。つまり、この展開は、スタッフの想定内だったのです。
ただ、京アニの表現技術が凄すぎて、視聴者によっては回復不能なインパクトを与えてしまったのは、想定外と謂えるかもしれませんね。京アニ畏るべしw
作画は、まさに、「象徴の森」でした。
「こちら側とあちら側」の境界線上に立ち竦む登場人物たちを描いて、巧みな仕上がりです。
象徴や暗喩が罩められていない場面を探す方が困難なほど、「意味」がぎゅっと詰まっています。
故意に、明度を落した画面。全ての情景が、登場人物たちの心情に噎ぶかのように、沈痛かつ寂寥感に充ちている。
「氷菓」の、最終話の作画を想起させるような、抒情世界。
京アニの、工芸的な技術の粋を、あらためて、見せつけられた思いです。
「象徴と暗喩」の例を一つだけ挙げれば、「抱擁」を描いた場面の対比です。
勇太と六花を抱きしめて去る十花。
凸森を、愛しげに抱きしめる森夏。
二つの抱擁は、いっけん似ているようで、決定的に非なるもの。
ユング心理学ふうに読み解くと、こうなります。
十花の抱擁は、支配的な母性。懐柔し、説諭する力。
森夏の抱擁は、受容的な母性。癒し、支える力。
勇太と六花を「説得」し、そのまま旅立ってしまう十花は、現実を代弁する「強者」に見えますが、彼女が必ずしも義しい(ただしい)わけじゃない。説諭では、人は救えない。
その象徴として、実に巧みな表現だったと感じました。
次回は、いよいよ最終話。
びっくり箱をぶち撒けたようなハチャメチャな結末も大好きですが、京アニの輓近の仕事ぶりから推量するに、どうやら、しっとりとした大団円を迎えそうな予感。
それもまた善哉(よきかな)。
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