#15「世界を救う人々」
これは反語なのか?
ジョセフ・フォン・スタンバーグの名画に「救いを求むる人々」(1925)があります。
社会のどん底に生きる一家を描いたこの短篇は、当時、笑いの陰で「人間」を描くことを目指していたチャップリンに激賞され、スタンバーグは世に出て、のちに「嘆きの天使」「モロッコ」など、映画史に残る名作を制作しました。
今回のピンドラは、私の心に響きました。
もっと精確にいえば、私の心に響くモティーフやガジェットに充ち満ちていたのです。
取り留めもない「想い」が脳裡を逍遥していますが、全力をあげて、「思索の航跡」を文章化したいと思います。
時籠ゆりは、「本当は」何をされたのか?
通常の児童虐待と考えてもいいのですが、父親の行動から推察するに、彫刻家としての創作衝動に深く根ざした行為、と考えてよいでしょう。
しかもどうやら、その衝動は、「面伏せな欲望」に基づくもののようです。
ゆりの父親は高名な彫刻家。
サモトラケのニケや、ミロのヴィーナスに似た古典的彫刻を制作している。
通底するのは、頭部や腕の「欠損」。欠損の美学。
彼の美意識は、欠損という妄執にバインドされているらしい。
だから…。
「ママは、愚かで醜かった。だから、ママはあんなことになった」
「パパの手でゆりを改造させておくれ」
父親が示唆した人体改造とは、何を意味するのか?
①ゆりは実は男の子。「余分なもの」とは男根。改造とは、♂⇒♀という切除(去勢願望)を意味する。
②その逆に、♀⇒♂という形成手術?腕や脚を傷つけたのは、美容整形の手術例のとおり、同じ体の皮膚を転用して、男根の形成を行おうとした。
③もっと厭な想像は、ゆりという「人体素材」を使用して「欠損彫刻」を創造し、妄執する美を体現しようとした。床に転がった彫刻の脚が、その象徴。
ダビデ像は男色の象徴とも言われています。ゆりパパに男色の嗜好があったとするなら、トランスヴェスタイトとも繋がりがあるでしょう。そこから、①の予想を導き出しました。②は、その裏返し。
最後に使おうとした「フィレンツェの鑿」が、どのような隠喩かは分明ではないのですが、「美しいツールで本物の美を造り出す」ということかな?これは、③に繋がっています。
…何ともビザールな予想になってしまいました。('A`|||)
どれも外れていればいいと思います。ただの比喩だったとかね。
荻野目桃果(豊崎愛生)ちゃんは、リーディングシュタイナーだった!
日記により、運命の乗り換えができる。「乗り換え」というキーワードにより、電車のモティーフがここでも裏書されました。
そして、運命を乗り換える呪文の代償としての「傷害」。これが、のちの悲劇を惹起したのか?
「神さまが造ったものだから、みんな綺麗」
いわば汎神論的な思想に、フェリーニの名画「道」の美しい台詞を想起しました。
「この世に要らないものなんてないのさ。道端の草も、あの星も。あんただってそうだ」
ゆりパパのおぞましさに対蹠するような、桃果ちゃんのイノセントな美しさに、感銘を受けました。ゆりが惚れちゃうのもよく判ります。
代償ないし対価としての人体発火。もはや錬金術の世界です。
そして、「あの事件」によって、桃果は「あっちの世界」に逝ってしまった。
時籠ゆりの願望が、ついに明確になりました。
「日記の呪文で、桃果をこっちの世界に取り戻す」
夏芽真砂子が日記に執着する理由も、まさに同じなのでしょう。
そしてそれは、陽毬をこっちの世界に取り戻そうとする高倉冠葉にとっても…。
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