学園黙示録第12話(最終話)感想
#12「All DEAD'S attack」
核と放射能による、世界のゆるやかな破滅?
「人類最期の日」テーマのSF古典『渚にて』(ネビル・シュート)の結末を選択したのかな?と思わせる前回でしたが。
日本に落下した核は、破壊ではなく、電子制御による全てのIT機器の停止という、新たなクライシスを生み出しました。
そして、この危機は、高城パパが構築した擬似コミューンを壊滅に追い込み、孝たち「子ども」は、またも拠り所を失い、荒地と化した街へと再び出発する、という結果をもたらしたのです。
「今日から夜は、本当の闇そのものになるのよ」という沙耶の予言?がありましたが。
築き上げた文明の象徴を一つずつ失っていくことにより、人間は、元いた場所へ、生き延びるという本能にのみ支えられた、「本然の姿」へと回帰していくって、テーマなのかな…。
孝たちは、親を探すという「唯一の」目的のために、ショッピングモールへと辿り着きます。
どんな運命が待ち受けているのかは、明示されません。
物語は、まだ終わらない。
ガルフォースふうに言えば、「すべてが終わった。そして、全てが始まる」というところでしょうか。
投げっ放しなの?という意見も散見された最終回ですが。
状況のみを提示し、そこで繰り広げられる(踊らされる)人間模様を描き、あえて結果は提示しない。
そういう手法も、アリだと思います。もちろん、原作未完という事情の方が大きいのでしょうけれどww
現時点では、これはこれで受容するしかないな、というのが率直な感想です。
『学園黙示録』の結末を予想しようと、幾度か試みたとき。
パニックサスペンスの古典、ヒッチコック『鳥』のラストシーンが、絶えず念頭にありました。
鳥=ゾンビと置き換えれば、まさしく同じシチュエーションの使い回しといえます。
あの作品では、主人公たちが、鳥に包囲されていた家から脱出し、車に乗って新天地を目指すのですが。
しかし、発進した車の行く手には、不気味に沈黙する無数の鳥たちが…。
HAPPYともBADとも判別のつかない終わり方に、当時、得体の知れない戦慄を覚えた、生々しい記憶が残っています。
EDで引用されていたエリオットの詩に、強烈な既視感を覚えました。
「かくて世の終わり来たりぬ」は、『渚にて』の冒頭にも引用されていますし、20世紀を代表する詩篇『荒地』の作者としてのエリオットは、もちろん知悉していました。
にしても、どうしてこんなに懐かしい気がするんだろう?と、ひとり訝しんでいたところ。
とつぜん、思い出しました!
故・石森章太郎の好短篇、海から出現した泡につつまれて、すべての人類が胎児と化してしまう破滅SF『胎児の世紀』でも引用されていたことを。
そうか…。
あの作品、大好きだったからなあ…。
プルースト『失われた時を求めて』ふうに言えば、引用って、懐かしい記憶を呼び覚ますための好個な触媒になり得るんですよね。
だから、引用が好きです♪
『学園黙示録』の完結については、いつか来るべき2期を待ちたいと思います。
プルーストの大長編が、長いながい空白の時を経て、『見出された時』において、ようやく完結したように。
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